英語と現国(+勉強電話のお誘いの話)

2018/12/30

 

 林修による2日間の特進の授業おしまい。林修が直々に採点する答案で「やってはいけないこと」をバリバリやってて自分の頭の悪さに辟易した、んだけど英語と現国は同じ解き方ができるのではないか、ということにようやく気が付いた。英語の読解とか要約とか。

 

 英語はディスコースマーカーとか論理の展開とかに結構印を付けて解いていくのだが、その時ってやっぱり考えていることは現国と特に何も変わらなくて。論説とかなら「筆者の普通とは違う主張」であり、小説なら「心情が変化する場面においての状況やその感情」であり。前半は英語で、後半は現国で教師に言われたこと。具体例は何を言いたいがために使われているのか。問われている傍線部はそもそもなんと書いてあるのか。共通していることをふと感覚で認識出来た。

 

 傍線部の分析、というものを林修はひたすらに強調してくる。出来ないと言っている奴はこれをしていないのだ、と。「どういうことか」という聞き方なら「解答=傍線部」でなければならないし、「なぜか」という聞き方なら「解答→傍線部」という論理構造でなければならない。その為にはまず傍線部の内容をきちんと理解した上でどの部分を使えば良いのかを判断すれば良い、とするのが林修の解法。システム化されている、コンディションに依らず解くことが出来る解き方。

 

 僕は現国は得意だった。読むのはそれなりに早かったし、一読してどこに何が書いてあるのか、などということは基本的に全て頭に入っている。なので問題を見ればおおよそどこを使えば良いのか、とかどこに書いてあるのか、ということが分かっていたし、それで結果が出せていたから何も変えなかった。本文中に書き込みなど滅多にせず、偶に注に気が付かないため注釈のついている言葉に☆をつけておくくらい。

 

 それで、前センターレベル模試を解いても1問ミスで抑えたし、それでいいと思っていた。

 

 でも、次にセンターレベル模試を解いたら現国が70点を切る悲惨さで、東大特進の宿題なんかボロボロだった。

 

 けれど僕は、「自分が優秀ではない生徒である」ことを認めたくないがために、解き方を見直しもせず、復習も何ひとつとしてしてこなかった。だって面倒だし、そんなこと自分を傷つける行為じゃん。やりたくないに決まってるよね、と。

 

 今回も、まともに予習もせず突っ込んで行って、見事にゴミのような答案を書き上げた。

 

 そして今回の授業。ハタ、と気がついた。

 

 毎授業で林修の書き込みの入った本文が配られるのだが、どうにも英語の長文を読む時と似たようなことをしているのだ、と。しかしながら、と入っていれば当然逆の内容が入るし、そのため、やだから、などとあれば当然ながら因果関係が上から下に流れている。

 

 ここでは僕の汚いところも全て出そうと努力しているから述べておくが、現国ごときで書込みをするのは非常にダサい、カッコよくない行為だと今までずっと思ってきた。だって母国語じゃん。読めば分かるのになんで書き込まないと分からないの?愚かすぎないか?という思いと共に。それまでそのスタンスで正解を導けていたが故に。

 

 そしてその思いは今もある。接続詞を四角で囲んでみる、などといった行為はまるで自分が日本語もまともに読めないし扱えないような底辺の人間であることを主張している行為であるかのように思える。

 

 けれど、英語は平気な顔でそうやって解いているのに、何故現国では同じ解き方で解けるのに解かないのか、と漸く自問出来た。

 

 必要なことは全て同じ。本文中の流れを理解して、メインに据えられたテーマを理解して、傍線部を正確に解釈した後、必要な部分を本文中から抜き取る。自分の想像力など入り込む余地のない、誰がやっても同じ結果になる行為。

 

 林修の説明を聞いて、「そんな文あったっけ」みたいな思いを数回抱いた。つまり、本文を読めてすらいないわけだ。読書量も大幅に減り、読むとすればラノベばかり、時々Newton。そんな人間が日本語の文章を未だに読めるわけがないのだ。

 

 

 でもそれはそれとして、出来ない自分は情けないししょぼいしダサいしで身を投げたくなった。自分が出来ないことを認められないのは、無駄に凝り固まった高いプライドと自分は万能であるというお門違いな優越感。あと、嫌な事をしたくないという我儘のせいだと思う。

 

 今、非常に重要な岐路に立っている気がする。大学に現役合格できるか、否か。それがすなわち、今からどんな風に生きていけるのか、ということに繋がってくる。

 

 今僕は努力が出来ない。勉強をすることが出来ない。集中することが出来ない。本当にイライラする。そんな自分にイライラする。腹が立つ。

 

 音楽を聴いていたらその音楽が勝手に頭の中で流れ始めて止まらない。意識もそっちに向く。

 

 かといって雨の音やホワイトノイズを聞いても何にもならない。無いなら無いで雑音が聞こえて気が散るし、あったらあったで気が散る。

 

 色々と、この冬休みで変えていかなきゃいけないと思っている。

 

 

 ところで、現国と英語の話は本当に思っています。如何でしょうか、一考の価値はあると思います。

 

 あと、勉強する時に会話も何も無いけれどただ電話を繋ぐことに対する有効性を認めても良いのではないか、という思いが出てきています。こちらは相手がいないと出来ないので、やってくれませんかね。(話は本当にしないので仲の良し悪しは関係ないかな、と。むしろなんでこの人と繋がってるんだ、くらいの人の方が効果はあったりするのか?)僕じゃなくても、やってみた感想とかお聞きしたいです。でもこれ僕が勉強に集中するために考えた事なのでやっぱり自分でもやりたい。